新幹線岡山開業に伴い、「つばめ」の名古屋〜岡山間が廃止になり、「金星」の間 合いとして1往復が485系に混って運転されることになった。北陸の降雪区間を走る 為、耐寒耐雪工事を行なって運用を分離して運転された。しかしながら降雪期以外は 未施工車と込みで運用されていた。雪による遅延により、「金星」から「しらさぎ」 あるいはその逆への転換作業時間が取れずに遅れまたは運休することがあり問題となっ た為、1978年10月改正で「雷鳥」として進出するのとは裏腹に6年半という短命で485 系電車に再びバトンを渡して消えることになった。
「雷鳥」
(4017M/4024M(9/18号)大阪〜金沢)1978.10.2〜1982.11.14
(4019M/4016M(11/6号)大阪〜富山)1978.10.2〜1982.11.14
(4025M/4034M(19/30号)大阪〜金沢)1978.10.2〜1982.11.14
(4035M/4032M(31/26号)大阪〜富山)1978.10.2〜1982.11.14
(4023M/4032M(17/26号)大阪〜金沢)1982.11.15〜1985.3.13
(4029M/4038M(23/34号)大阪〜金沢)1982.11.15〜1985.3.13
臨時列車としての「雷鳥」の運転は、向日町運転所に583系が転属した1975年春から
にさかのぼるが、1978年10月改正で山陽九州方面の運用減少により、余剰となった車両
を転用して4往復が運転されることになった。この為、同改正で逆に485系に置き代えら
れた「金星」〜「しらさぎ」用の耐寒耐雪装備車を含め87両が強化工事を施して運用す
ることになり、翌年2/28まで1往復を週末のみの運転として、ドック入りの為の車両を
確保して対処することになった。その後耐寒耐雪工事は限定運用をなくす為、徐々に他
の車両にも体質強化も兼ねて行なわれるようになった。
1982年11月改正で2往復が485系に置き換えられ、続く1985年3月改正で残り2往復も
485系に置き換えられて、定期特急運用としての583系の運用はなくなったが、波動用に
回された2本により、多客期には583系による
臨時「雷鳥」
の運転がJR化後もしばらくおこなわれていたが、681系の登場後行われていない。
「立山」(6501M/6502M 大阪〜富山)1982.11.14〜1985.3.14
山陽・九州路からの撤退により、余剰となった583系の活路として、寝台座席どちらに もできることから夜行急行への転用が行なわれることになり、その第一段として投入さ れたのがこの列車である。実際には1982年11月改正で定期列車としての運用はなくなり、 季節列車としての運転であった。大阪より3両のみ寝台をセットし、グリーン車と営業 中止の食堂車をはさんで3両が指定席、富山より4両が自由席という内容であった。ま た、この改正で14系寝台客車も急行に転用されることになり、こちらは「きたぐに」に 肩をならべての運転となった。運転区間が短かったこと、および季節列車であったこと が災いしてか利用が芳しくなく、14系転用の関係もあって後述の「きたぐに」に道を譲っ て1985年3月改正で廃止となった。
「きたぐに」(501M/502M 大阪〜新潟)1985.3.14〜
「立山」「雷鳥」の廃止で命運尽きるかと思われた583系も、寝台座席両用で使えるこ とが効を奏して「きたぐに」で生き延びることとなり、両列車の廃止となった1985年3 月改正から14系に変わって運転されることになった。(14系は20系の置き換えに転用) 列車の性格と需要の関係でA寝台が必要になった為、わずかに残った6両のサハネを全 車1区画は喫煙室に改造した他は上中段舟を取り外し、新たに幅広の上段舟を付けて2 段化し、窓も中段の覗き窓を埋めて対処した。洗面所にはロールペーパーを取付、モケッ ト、カーテン等も取り替えてプルマン解放式A寝台車に改造した。583系も末期になって このような改造格上げでロネが登場することになったのはなんとも皮肉なことである。 同時にサシも外されて編成もTncM'nMnM'nMnTsTsnM'nMnM'nMnTncの12連となった。大阪寄 の5両が自由席で、グリーン車指定席、A寝台、B寝台5両の順である。国鉄最後の1986 年11月改正でモハネを1ユニット減車したTncM'nMnM'nMnTsTsnM'nMnTncの10連となり、 自由席車とB寝台車を1両づつ減車とした。以来西日本で、そして今では583系唯一の定 期列車として現在まで運転されている。JR化後、下りの新津−新潟間が快速列車とされ た他は、多少の時刻変更はあったものの大きな変化はない。
(季節・臨時列車)
「庄内」(新潟〜酒田)1985夏臨〜
「きたぐに」に583系が運用される様になった年の夏から、新潟での間合いを利用して 酒田までの1往復が酒田まで運転されていた。12両(後に10両)のうち、座席車のまま の6両(5両)のみ使用しての運転であった。数シーズンの運転で583の運用はなくな り、列車の設定もやがてなくなってしまった。
「日本海」(9051M/9052M(51/52号)大阪〜青森)1985秋臨
定期列車は客車で運転されているこの列車も、1985年の秋臨には583系で1往復が運転 された。「雷鳥」にも運用されていることもあって、向日町から1本、青森から1本の 2本で交互に運転された為、向日町車のみのA寝台は隔日で交互に入ることとなった。 特急列車に583系のロネが営業されたのはこの時だけである。(「雷鳥」等、昼間に座席 で運転されるときは普通車扱い)特急として運転されたのはこの時だけで、3段ハネは 特急にふさわしくないということから、冬臨から急行「あおもり」となって、1994年冬 までは20系客車で運転された。(以下後述)なお、災害等で列車遅延の場合に青森の583 系が代用で運転されたこともあった。
「あおもり」(9511M/9510M 大阪〜青森)1994春臨〜
三段寝台ということで、1985年秋に設定された臨時「日本海」を急行に格下げして当 場した列車である。20系客車で運転されていたが、老朽化に伴い、急遽1994年の春 (ゴールデンウィーク)から583系にスイッチされ、以降583系電車で運転される様になっ た。向日町の583系が主に使われるが、他列車の運用で不足する場合(冬のシュプール 運転時など)には青森の583系(ロネなし9連)で運転されることもある。「あおもり」 に投入されたことにより、いくつか他の臨時列車の設定がなくなってしまったのは、残 念というべきであろう。
「シュプール妙高・志賀」(姫路〜長野他)1987冬臨〜
関東で運転されて好評の「シュプール」を翌シーズンからは関西でも運転されること になり、1987年のシーズンから波動用の583系を使用して運転された。好評の為途中で 増便されることもあり、1〜2往復が最長は長野まで運転されている。延命工事の始まっ た翌1994年のシーズンからは485系と併結、しかも貫通扉を使用(北陸トンネル通過の関 係)しての運転は注目を浴びている。この年から運用数の増加により、東日本から借用 しての運転もあり、塗色が延命工事と合わせて変更になった為、2色混合での運転も見 られることとなった。1998年のシーズンからはさらに塗色がJR西日本新標準色とも言える いでたちに変わり、1999年のシーズンから併結はなくなって単独編成となっている。
「シュプール野沢・苗場」(神戸〜越後湯沢)1998冬臨〜
北越急行開業により、同線を経由して越後湯沢まで運転される「シュプール野沢・苗場」 が1998年のシーズンから583系を使用して運転されることになった。合わせて583系の 塗色がJR西日本新標準色とも言えるいでたちに変わり、昔を彷彿させることとなっている。
「シャレー軽井沢」(9503M〜9318M/9319M〜9506M神戸〜軽井沢)1989夏臨〜1993夏臨
シュプールで人気が出たこともあって、1989年の夏からゴルフ客などを見込んで同ス ジで軽井沢までの急行「シャレー軽井沢」が設定された。編成はモハネを1ユニット外 したTncM'nMnTsTsnM'nMnTncの8連で、波動用のうち2編成にカーテン等の変更を含めた 改造を行なって専用運用とした。さらに、1991年夏からは、ハネの上段を固定し、網棚 を外して簡易2段寝台で運転された。しかし、需要が伸び悩んだのか設定日数は減少の 一歩をたどり、「あおもり」に転用されたこともあって1993年夏を最後に電車2段寝台 とともに設定がなくなった。モハネ582の俗称パン下中段だけは電車3段式の中段の料 金のままだったのは当然とは言え面白いことであった。
「東北夏祭り」(9501M/9504M 神戸〜青森)1989夏臨〜
「越後」(8503M 大阪〜新津(下りのみ))〜1993夏臨
「きたぐに」救済の為、多客期に客車列車で運転されていたものが、583系に置き換 えられて設定された。新津までの下りのみという設定である。この列車も「あおもり」 に吸収されたのか、1993年夏臨を最後に設定がなくなってしまった。
「TAPエキスプレス」(姫路〜富山)1991.4.20〜7.14(不定日運転)
TAP(Tourism Action Program90's)キャンペーンにより、姫路発の「雷鳥」(福井、 石川、富山3県への乗客誘致の為)的な性格として設定され、583系が使用された。列車 としてはシーズン毎にトクトクきっぷと合わせて他線区でも設定された。
「ナインドリーム甲子園」(9329M 新大阪〜甲子園口(下りのみ))1991夏臨〜1993夏臨
毎年春と夏に甲子園で行なわれる選抜全国高校野球大会の応援客の為に設定された 列車ホテルである。晩に新大阪と大阪で客扱いをし、そのまま大阪駅4番ホームに翌朝 まで留置(途中からドア締切扱いで出入り不可)、甲子園口まで電車線を走行して中線 で開始時刻まで停車するという変わった列車であった。甲子園口駅のホームの有効長に より7連が限度なので、サロネとモハネ1ユニットを外した7連というのも変わってい た。この列車も不人気だったのか、「あおもり」への投入のせいなのか1993年夏を最後 に設定がなくなってしまったのは残念である。運転区間は東海道区間であるが、都合上 ここに加えることにした。
「北越」(9032M(92号)長岡〜金沢(上りのみ))1995.10.22,29
季節臨ではなく、上越新幹線の長野新幹線高崎駅分岐工事に伴う運休で、リレー号と して運用された後、連絡列車の混雑救済という形で金沢まで運転された。日曜に2日 間だけの運転ではあったが、新潟以西に583系の原色の12連が昼間に走ったことが特記さ れよう。