581/583系(寝台)電車とは、1967年に世界初の昼夜両用電車として開発された車
両です。(寝台車も座席代用として昼間も使えないことはありませんが、昼間の居住
性も考慮されている分、違いがあります。)
この車両が開発された背景として当時の国鉄は電化の延伸により、多くの線区で優
等列車が増発され、それに使用する車両の増大により車両基地での整備や収容両数の
問題が懸念され、通常なら昼間と夜行とそれぞれの車両がお互いに基地を占領するの
に対して、占領する時間が少なく、運用効率も良い車両をという要望がありました。
当初急行用として設計が始まったのですが、それだと平均速度が低くて転換している
時間が取れないということもあり、急遽特急型として設計を変更しての登場となりま
した。1958年以来、慣れ親しまれてきた「こだま」型ボンネットタイプの前頭ではな
く、長崎佐世保線電化後予想される分割併合を想定しての、貫通型とする為にホロを
内蔵する新たな形状の前頭部がデザインされ、その後の特急型の標準ともなりました。
カラーリングもクリームと赤のツートンである標準的な特急色ではなく、20系ブルー
トレインと同じ紺と薄めのクリームのツートンといういでたちとなりました。また、
初めて電動式の行先表示器を側面に配し、新世代の特急電車として堂々の登場となり
ました。
室内は昼間は4人掛けボックスシートながらも寝台として使うこともありゆったりと
したシートピッチは向かい合いでの狭さもなく、特急としての使用に遜色ないものと
なりました。夜ともなると中段と上段が組立られてプルマンタイプの3段寝台車とな
りますが、この寝台収納のカラクリと昼間の網棚とする部分との仕掛けにはよくぞ考
えたり!と感動物の構造物となってます。3段寝台とした為、高さの余裕はありませ
んが、長手方向に配した作りの為、寝台幅が上中段で70cm(それまでは52cm)、下段
はなんと106cmとA寝台より広くなり、親子連れでの旅行には重宝したものでした。
また、電車ゆえ、パンタグラフの下の部分は高さが確保できず二段とした為、中段の
高さ方向のゆとりはピカ1で、「パン下中段」として“通”には愛用されたものでし
た。
電車としては同じ交直流特急電車として開発された481/485系と同じ機器、走り装
置を使い、性能的にも同一となってます。(併結も可能)581系と583系の違いは、50/
60Hz共用の変圧器の開発が間に合わなかった為、60Hz専用として581系、翌年からは
50/60Hz両用の三電気方式として583系となりました。違いは電動車に積まれている変
圧器だけです。
当初はグリーン車の寝台転換構造が間に合わず、普通車またはB寝台車のみのモノ
クラス編成として、1967年10月1日の大分電化のダイヤ改正から昼間は「みどり」
(新大阪〜大分)、夜行は「月光」(新大阪〜博多)にデビュー、44両が南福岡電車
区に配置されて活躍を開始しました。翌年には時間切れで座席のままとなりましたが、
サロがサハネに代って1両組み込まれ、さらに増発されました。また、東北線電化完
成により、青森にも配置されて「はつかり」「はくつる」「ゆうづる」で活躍を開始
しました。
登場当時からしばらく花形だったこの車両も、赤字に転落した国鉄の救済の為の合
理化、省力化が検討され始めるとカラクリ箱さながらの複雑な構造は災いをなし始め、
さらに新幹線の延伸に伴い、昼間はいうまでもなく夜行までもが活躍の場を失い、乗
客の指向の変化に伴い1974年に二段寝台客車が登場すると早くも時代遅れとなって、
1975年の博多開業で昼間の活躍場所を失い、1984年2月の改正で、最初の主たる働き
場所であった山陽九州路から撤退することとなった。1982年11月からは急行に格下げ
使用も始まり、1985年3月からは急行「きたぐに」(大阪〜新潟)ただ1本のみとなっ
てしまいました。この列車にはかつてからA寝台の需要があり、この時期に至って向
日町のサハネが6両全車サロネへ改造されました。上段の撤去、中段の移設により、
プルマンロネとしても名目を保ってはいるものの、座席車としては普通車扱いでもあ
り、A寝台とB寝台の格差も少なく、中途半端であることを否めません。廃止に伴い
余剰となった車両達は1984〜1985年にかけて後述する419系、715系近郊型への改造に
より転用されました。
東北の方も1982年11月改正で昼間の活躍場所を失い、JR化後も細々と年々減少しつ
つも「はくつる」「ゆうづる」で残ってきたが、1993年12月に「ゆうづる」が、1994
年12月には「はくつる」からも撤退し、「ゆうづる」と共に昼間の「はつかり」から
も撤退したこともあって、現在定期運用はなくなって、臨時列車で姿をみせるだけに
なってしまいました。ただ、座席にも寝台にもなり、電化区間は基本的にどこにでも
行ける身の軽さが幸いして、スキー列車として「シュプール」での活躍や、団体等に
活路をなんとか見いだしています。
食堂車は1985年3月に全面廃止となってJR移行前に全車廃車、レストラン等に転用
されたものの、ほとんど解体されてしまいました。残りも余剰等により廃車が進み、
南福岡の車両は1975年に向日町に転属した後60両が、青森には69両が残るのみとな
りました。最盛期に434両を数えた581/583系も1/3にまで減ってしまいました。
向日町の車両はJR化後1991年から延命工事が始まり、翌年からは塗装もライトブルー
に青と黄緑の細帯といういでたちに変わり、ここしばらくは活躍が期待できそうです。
反面、青森の車両も3本は延命工事を受けたものの、廃車が徐々に行なわれており、
残念でなりません。